東西ドイツ国境だった町
先日、「ドイツのロウソクを灯す夜」の記事でも少し触れましたが、私は高校2年生の時に、日本スポーツ少年団の日独同時交流のメンバとして、当時の西ドイツに行かせていただきました。当時はドイツはまだ東と西に別れていた時代でした。
2箇所でホーム・ステイをさせていただきましたが、最初のホームステイ先はバイエルン州のホーフ(HOF)でした。ホーフ中心部からちょっと車で移動したところに、国境がありました。
右の写真に写っている“壁”の向こう側が東ドイツ。写真の左奥に見える塔のような建物の中から、東ドイツの人が、常に国境を見張っているのだそうです。
東西ドイツ国境のほとんどは、国境からもっとずっと離れたところまでしか行けないのですが、右の写真のように、相手国の民家が見えるような位置に、国境があります。左の白色の立て札の位置から向こう側には、立ち入ってはいけないことになっていました。
左の写真は、途切れている道です。この道のインパクトは大きかったです。友好的でなかった東西ドイツの関係を目の当たりにしてしまったようで。
道をたどって行くと、道の真ん中に大きな立て札がありました。その先は立ち入り禁止。道の上を国境が横切っているので、東ドイツ側に通じてはいないのだそうです。写真の奥の方に見えるのは、東ドイツの建物です。
※この日は雨だったので、写真には、雨も一緒に写ってしまっています(^^;
東西ドイツ国境の町に立った時、高校生だった私がそこで何を感じたのか?当時私が書いた旅行記(一番上の写真。後半は未完成)の中から転記して紹介します。
昼食後は、東西ドイツの国境の見学。
私たち日本人にとって、目の前に見えているのが自分の国ではないというのは、どうしても実感がわかない。ましてや、壁が国境沿いに並んでいたりするのは、なんとも不自然に思える。
班長が、「これから先、東ドイツと西ドイツが国交を回復するか」という質問をした。これに対し、ガイドをしていただいた国境管理局(?)の人は、「回復する」と答えた。彼は「近い未来にきっとそうなるであろう」と答えたのである。
この言葉は、私の心をを明るくした。私はそれが現実になる日を楽しみにしている。同じドイツなのに、壁や鉄線で分けられているのはなんとも心が痛い。ましてや、国境が日夜監視されていて、行き来できないなんて。島国である日本では、全く考えられないことである。
──第12回日独同時交流の個人旅行記から転載──
その数年後、“ベルリンの壁”が取り壊され、国境管理局のガイドさんの言葉は、実現されたのでした。
国境の町。今はどうなっているんでしょうね?
ドイツでのサッカーW杯が終わるまでに、東西ドイツの時代があったこと、息子に話してみようと思います。
関連情報へのリンク:
- Stadt Hof
※ドイツのバイエルン州ホーフのWebサイト
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昔の日記にコメントしてごめんなさい
以前にもこの日記を読ませていただいたのですが、今日ふとまた読みたくなってやってきました。
今回、この辺りにはいけませんが、大陸でしか感じられないことを感じてみようと思いました。
投稿: きょろ | 2007年3月 9日 20時17分
★きょろさん
コメント、ありがとうございました!
また読みにきてくださったんですね。うれしく思いました(^^) 旅行、近づいてきましたものねw 旅行の準備って、私は結構楽しいんだけど、きょろさんもかな?
この記事、読み返してみました。高校生のときの私も、記録するのが好きだったみたい。旅行記書くの、好きだったなぁ。そういえば、運動会でも記録係でした(^^;
投稿: windy | 2007年3月11日 22時45分