2011年3月11日の記録:地震発生から徒歩帰宅出発まで
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の日。あれから半年が経ちました。思い出すと辛いこともまだあるけれど、私は自分が過ごした時間と感じたことを、まとめておこうと思います。自分のために。
地震が起きてから、歩いて帰宅するまでの記録を、何本かの記事に分けて、紹介させていただきます。地震の起きた日、不謹慎かな、、、と思いながらも、生きている自分の場所を記すように、時々、写真を撮りながら歩いていました。不快に思う方がいらっしゃるかもしれませんが、ご容赦を。思い出すと辛い方は、下記の記事を読むのをご遠慮くださいね。
2011年3月11日の記録 目次
・ 地震発生から徒歩帰宅出発まで
・ 徒歩帰宅 (1)、(2)、(3)、(4)、まとめ
2011/03/11 14:46
地震が起きたとき、私は東京都内の会社のビルの自分の席で、PCに向かい、発注関連の事務手続きをしていました。ビルが倒れてしまうんじゃないか、死んじゃうんじゃないかって真剣に考えるくらい、今まで経験したことがない凄い揺れでした。子どもたちのことと、実家のことが真っ先に頭に浮かびました。でも、強くなる揺れの中、できることは多くなく、私ができたことは、となりの席の後輩が差し出してきた手を握り、「大丈夫。落ち着いて。」と彼女に言うこと。同僚と一緒だったこと、一人ぼっちじゃなかったことが、どれだけ心強かったことか。
2011/03/11 14:53
地震の揺れがおさまった後、iPhoneアプリ「ゆれくるコール」からの緊急地震速報が、iPhoneに表示されていることに気づきました。私がいる場所に震度4の地震がおよそ0秒後にくるとの表示。そんなことしてどうなる?と思いながらも、画面を保存しておきました。私がいた場所では、実際には震度5弱の揺れでした。
2011/03/11 15時頃
秋葉原駅のバスロータリー。地震の後、上司や同僚と一緒に階段を歩いて下り、ビルの外に出ていました。
地震の後、秋葉原駅のロータリー付近には、人が沢山いました。マクドナルドの方が「地震がありましたが、当店は営業しております。どうぞご利用ください」と、声をかけていました。その後、余震が起きました。余震の後、マクドナルドさんの対応は素早かったです。お客様とお店の人全員が外に出てきました。下の写真は、余震の来たあとの様子。店の中には誰もいません。
2011/03/11 15:33
ヨドバシカメラ前。余震が来たとき、中央に写っている街灯が左右に大きく揺れました。
2011/03/11 15:34
東北から出張にきてくださっていた協力会社の方を見つけて、言葉を交わしました。その後、JR秋葉原駅へ。電車が動いているか確認に。
2011/03/11 15:34
JR秋葉原駅。柱のスクリーンに映し出された映像を、みんな、静かに見ていました。本当に静かでした。
2011/03/11 15:34
JR秋葉原駅。この時点では、電車が動くかどうか、まだ、分かっていませんでした。
2011/03/11 15:36
JR秋葉原駅。電車は運転見合わせ。人が動き始めました。
2011/03/11 15:44
「(建設途中の)スカイツリーは大丈夫なのかな」と、すれ違った誰かが言っていたので、おそるおそる見てみました。大丈夫そう。かなり安心。
お台場の方で火事が発生したとのこと。
秋葉原の空は、静かでした。
バスは、動き出していました。
事務所に戻りました。
2011/03/11 16時~18時
家族とも、実家とも、連絡がとれませんでした。「災害用伝言ダイヤル」の記事を、iPhoneで書きました。私は無事だとわかるように。
◇ ビルの水道が止まった件
ビルの事務所からは、適宜、放送が入りました。よって、情報が来ないということはありませんでした。地震の後、私が通っているオフィスビルでは、水が出ませんでした。おトイレのお水が止まってしまったのです。でも、しばらくしたら出るようになりました。地震の後のチェック結果についても、案内がありました。こういった情報も、ビルの警備室からの放送で、私たちは速やかに知ることができました。また、夕方、かなり早い時間帯から、ビルの1階が、開放されていました。こういった出来事から、信頼感が増しました。
◇ すぐに帰宅できなかった理由
16時か、16時半ころだったと思うのですが、3時間以内で歩いて帰れる人は帰宅するようにと、上司から指示がありました。でも、私はすぐに帰ることができませんでした。仕事の面で、3つの理由があったからです。
一つめの理由は、自分がセットアップした説明会が開催されている真っ最中だったためです。この日の午後、プログラム仕様の説明会がありました。説明会をこの日の午後にセットアップしたのは私。出席者は、設計担当者と、システムテスト担当者とマニュアル執筆担当者。TV会議は機材の都合で実施できなかったため、東北と東海に分散しているみなさまに都合をつけてもらい、無理をいって、秋葉原に集まってもらっていたのでした。遠路、出張してきてくださった方々は、3時間以内では歩いて帰れないので、宿泊が決定。説明会を継続していました。説明会の進行は、地震が来る前から設計担当者にお任せしていましたし、自然災害なので致し方ないこととはいえ、この状況で、自分だけさっさと帰るわけにもいかず。。。結局、18時頃に、徒歩帰宅することになるのですが、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。。。
二つめの理由は、この日、3月11日までに完了しなければならない発注事務手続きがあったためです。地震が起きたとき、発注システムを使って、この事務手続きをしていました。「依頼」ボタンをクリックする前の、自己チェックを行っていたときに、地震は起きました。発注システムは、地震の後も問題なく使うことができましたが、「依頼」ボタンをなかなかクリックできませんでした。なぜなら、発注依頼先が東北の会社だったから。一緒に仕事をしてくれている協力会社の皆さんのことが心配でした。秋葉原駅のスクリーンや、ドコモ携帯の方が、街の被害や津波の様子をとらえた映像を見せてくれました。仕事では必要なこととはいえ、あの映像を見た後で、地震の起きたすぐ後に、地震の被害が甚大と思われる場所の会社に、発注依頼手続きをするってことが、なかなかできなくて。仕事のことの他にも、家族や身近な方々のことが気がかりで、仕事する頭に切り替えられなかったのでした。
三つめの理由は、総武線は動くらしいという情報が、会社の中にあったためです。この情報はデマではなかったと信じています。なぜなら、組織の上の方の、十分に信頼できる方からの情報だったためです。ですので、総武線を使っている人たちは、動くのを待つことになりました。夕方、総武線も、この日は動かないことが確かになりました。よって、徒歩帰宅することが決まりました。
◇ Skype経由で連絡が取れた!
夕方までの間に、山梨の実家とは、Skype経由で連絡をとることができました。実家にいる弟も、私に連絡しようとしていたとのこと。3人の弟のうち、他の2人(長男と三男)とは連絡がとれていなかったため、連絡がとれた弟(次男)に伝言をお願いしました。
私は無事だから心配しないでね、と。それから、これから歩いて学童保育に向かうこと。旦那様と子どもたちとは連絡がとれていないこと。また連絡するね。そっち(実家のこと)をよろしくね。と会話しました。
家族とは連絡がとれないままでした。
2011/03/11 18時
そして、18時過ぎ、同じ方向の人たちと一緒に帰るようにとの上司の指示に従い、千葉方向に帰る同僚たちと一緒に、4人で会社を出発しました。
※Webアルバムと「写真の記録」の記事で紹介させていただいた写真を、主に使っています。
2011年3月11日
東北地方太平洋沖地震の日の徒歩帰宅の記録
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2011年3月11日 |
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